こんにちは!
Yoshiです!
こちらのブログでは、
「藤原道長、紫式部、清少納言」の特徴などを、大河ドラマ「光る君へ」や
TV番組などを元に話します。
できるだけ分かりやすく話しますので、最後まで読んでいただければ嬉しいです!
歴史に全く興味がない方は、つまらないかもしれません…
最初にこちらの3人の特徴について、次に雑学を話します。
雑学を読む方は、10円玉や2000円札をご用意いただけると面白いかもしれません。
何故こちらの3人かというと、何を話そうかを考えていたときに、
今年といえば大河ドラマ「光る君へ」、そして少しでも興味を持っていただく為に、
平安時代の方の中で有名な人について話そう、と思ったためです。
それでは話に入っていきます!
1) 藤原道長、紫式部、清少納言の特徴
藤原道長(966-1027)は、平安時代中期の公卿(くぎょう)で、左大臣(さだいじん)や
摂政(せっしょう)まで昇り詰めました。→柄本佑さんが演じました
公卿は、律令における「太政官(最高国家機関)の高官」です。
左大臣は、太政官の実質的な最高位です。
今の内閣の位と比べると、
「国務大臣 = 公卿、総理大臣 ≒ 左大臣」みたいな感じだと思います。
1885年12月に内閣制度が創設されるまでは、太政官制度でした。
詳細:内閣制度の概要
摂政は、君主制国家における「君主に変わり政務をする役職」です。
→摂関政治という言葉、学校のテストに出た記憶があります
実質天皇です。
Wikipediaによると、日本の歴代摂政は60人です。(593-1921年)
聖徳太子は日本で最初の摂政とされていますね。
また、道長は
「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という
いわゆる望月の歌(1016)を詠んだことで有名ですね。
望月の歌の解釈は様々ありまして、私が持っている教科書では、
「この世は自分のものであると思う、満月に欠けたところがないように、
望みが全てかなって満足だ」のように、栄華を誇る歌であると解釈されています。
なぜ望月の歌を詠んだかを簡単に説明すると、
「道長の娘3人が3代の天皇(第66-68代の天皇)の后(天皇の妻)になったためです。」
ちなみにWikipediaには、与謝野晶子は、望月の歌は「酔中の戯れ」にすぎず、道長の奢りの象徴であるとすることは誤解であるとしている、と書かれています。
藤原実資(さねすけ)の日記・小右記には「一家立三后、未曾有」と書かれているらしいです。
実資は、左大臣の次の位である右大臣まで昇りました。
→ロバートの秋山さんが実資を演じていました。真面目な顔が面白かったです!
大河ドラマでは、道長は、常に民のことを考えて政治をする人格者として描かれていました。
また道長と紫式部は両想いでしたね。
紫式部(970?-1031?)は、平安時代中期の女房、作家で源氏物語の作者とされています。
→吉高由里子さんが演じました
名前の「式部」は、紫式部の父である藤原為時(ためとき)の官位(式部省の六位蔵人)に
由来するという説があります。
道長の長女であり一条天皇(第66代天皇)の后だった藤原彰子(しょうし / あきこ)の女房でした。
ここで源氏物語について少し深掘りいたします。
大河ドラマ「光る君へ」で時代考証を担当する倉本さんは、
「紫式部は、道長に命じられて源氏物語を書き始めた」と想定することが自然、と仰っています。
道長がこう命じた理由は、一言で言ってしまうと、
「道長の長女である彰子に一条天皇との皇子を産んでいただくためです。」
道長は、「一条天皇は物語が好き→紫式部は漢文を読みこなせるほどの才女→
紫式部を彰子の女房にして、彰子のもとで源氏物語を書いてもらう→
一条天皇が源氏物語の続きを読むために、彰子の御在所を頻繁に訪れる→一条天皇が彰子を寵愛する→彰子が皇子を産む」という流れを狙い、見事に叶えました。
詳細は下記をご覧ください。
をしへて! 倉本一宏さん ~紫式部は、なぜ『源氏物語』を書き始めたの?
源氏物語は貴族社会で多くの方に読まれたらしく、
特に一条天皇と彰子に影響を与え、政を動かしました。
紫式部は、藤原為時の長女であったため、とても賢かったです。
大河ドラマを見ると、おそらく血液型はA型なので、今の日本人の典型的な性格だったと思います。
清少納言(966?-1025?)は、平安時代中期の女房、作家で、枕草子の作者です。
名前の「清」は、父の名字である清原に、少納言は官職名に由来するとされています。
道長の兄の長女であり、一条天皇の后だった藤原定子(ていし / さだこ)の女房でした。
枕草子は「春はあけぼの」で有名ですね。
→小学校の授業で「雲の細くたなびきたる」まで暗記しました
そして「紫だちたる雲の細くたなびきたる」と書いた意味として、次の説があります。
・紫雲は定子を表していて、定子を褒めている
また、枕草子を書いた理由の1つが定子を褒めまくるためでした。
枕草子では、特に「をかし」や「めでたし」という言葉が多く使われていて、
「をかしの文学」と呼ばれています。
「をかし」は、素敵、
「めでたし」は、素晴らしい、などの意味があります。
枕草子で、清少納言は、「伊周様が雪に映えて非常に素敵(いとをかし)」と褒め、
(藤原伊周(これちか):定子の兄)
十二単を着ている定子の姿を「いと(非常に)めでたし」と褒めています。
紫式部は紫式部日記に、あはれ、をかし等のように感動ばかりしていて、内容が嘘っぽい、と書き、
定子の辛い部分に全く触れていないため、現実的でない、強がっている、と
清少納言を強く批判していました。
また、枕草子の素晴らしさを理解していたからこそ抱いた嫉妬の気持ちもあり、
批判していたかもしれません。
大河ドラマでは、清少納言は好き嫌いがはっきりしていてはきはき喋る、
という紫式部とは大きく違う性格でした。
清少納言は定子のことが好きすぎて、主人というよりも、今でいう推しだったと思います笑
定子様のためなら何でもする!というような演技でした。
2)雑学
糖尿病サイトによると、藤原道長は「日本で最初の糖尿病患者」です。
また、道長の日記である「御堂関白記」などから、道長は病気がちであったと分かるそうです。
糖尿病の原因は、美酒美食に明け暮れ、運動不足となり、
さらには権力闘争でストレスが強かったことかもしれません。
下記の【道長の症状の一部】は、読む方にとっては不快かもしれませんので、ご注意ください。
【道長の症状の一部】
実資の日記である小右記に、1027年11月に
「道長は横になったまま糞尿を垂れ流してしまった」や、
「激しい腹痛や下痢が数えきれないほど起こり、また背中に腫物が発動し、
針で刺すと膿汁と血が出た」
と書かれています。
腫物に関する記録は、糖尿病による免疫力の低下が誘因であると考えれば納得がいきます。
【10円玉について】
10円玉には、平等院の鳳凰堂が書かれています。
平等院は、1052年に道長の嫡男である藤原頼通が、父より譲り受けた別荘を寺に改めたものです。
鳳凰堂は、1053年に建立された平等院にある阿弥陀堂です。
【2000円札について】
2000年に発行を開始した2000円札の裏面には、紫式部の顔と源氏物語絵巻が載っています。
ちなみに、2000円札の発行部数は全体的に減っていますが、
沖縄県は、表面に守礼門が載っているため増やすことによって、独自の通貨にしようとしています。
こちらで私のブログは以上となります。
いかがでしたか?
もう少し雑学を増やせばより面白くなったため少し後悔していますが、
少しでも面白いと感じていただけたならば幸いです。
読んでいただきありがとうございました!!